グラス3 ロマンスアゲイン

岩田老人は開店以来のお得意様だ。
愛犬ホップとピルスの散歩の途中、ときどき寄ってくださる。
十年近く前、退職を機に奥様とのヨーロッパ旅行で訪れたベルギーで、初めて本場のビールに出会って以来、お二人ともその味にほれ込んでしまったのだそうだ。
その奥様は三年前に亡くなり、以来愛犬の散歩は老人の日課となった。その散歩途中で当店に目を止め、それからごひいきいただいている。

「家内が生きていたら、どれほど喜んだか。あれはあまり酒はたしまなかったのですが、シメイだけはことのほか気に入っておりました」

そういっていつもベルギーのトラピストビール、シメイを注文される。席はカウンターの奥か、窓際の街路樹が眺められるところ。グラスは二つ。なみなみと注いで乾杯。そして、奥様との静かな語らいのひと時。たっぷり三十分かけ一瓶をあける。そして最後に奥様の分のグラスを空けて席を立つ。その間、二匹の愛犬たちはおとなしく店外で待っているのだった。
上品で魅力的なおじ様。奥様もさぞかし素敵な方だったと偲ばれる。憧れの夫婦像が私の中に浮かんでいた。

その岩田老人が、ここしばらく現れない。

心配する私をよそ目に、「かなりの年だし、そろそろくたばっているんじゃないのか」と店長阿倍が言うと、「いやぁ、奥様の後を追って自分からってこともありますよ」とシェフ八嶋も毒づく。

「いい加減にしてください二人とも」と私。この二人、女性以外のお客に対しては関心が無い上、無責任なことを平気で言う。デリカシーのかけらも無い。

ところが。

連休が明けた月曜日の午後。
食パンを買いに、近所のベーカリーに出かけてお店に帰ってくると、店の前のポプラの木のところに、ホップとピルスがつながれているではないか。嬉しくなって急いで店に飛び込むと、いつもどおりカウンターの奥にあの紳士の姿があった。
「いらっしゃいませ。岩田様、お久しぶりでございます」

「いやぁ、お嬢さん。また寄せてもらいましたよ」

人懐こい笑顔に心が和み、ついこちらまで微笑んでしまう。老人の前にはいつものように、シメイの小瓶とグラスが二つ置かれていた。

いつもの光景。でもなぜか漂う違和感。
そう、老人の席の奥でもうひとつのグラスを傾ける人の気配がうかがえた。
私はカウンターに入り、シェフにパンを渡した。八嶋と目が合うと彼は首を傾げて見せた。

『僕は知らないよ』というサインだ。

改めて、今度はカウンターを挟んで、正面から岩田老人と連れの人に「いらっしゃいませ」と挨拶をした。

「どうも、よろしく」

その人はペコリと頭を下げた。セミロングの黒髪を後ろでひとつに束ね、白っぽいスウェットの上下を着ている。全体的に地味だが清潔で明るい感じのする人だ。
お嬢さんだろうか?
老人の一人娘は結婚して確か海外に住んでいると以前聞いたが…。
すると岩田老人は私に向かって

「お嬢さん(私のこと)、この人は私のかつての教え子でしてね、由紀子さんといいます」

と紹介した。その時老人の顔が少し赤らんだのは、酔いのせい?。

「始めまして、ようこそ。あの、副店長の城戸です」

なぜかぎこちなく答える私に彼女は優しく微笑んで頭を下げた。

なんとなく気まずい雰囲気を払拭するように、老人が大きく咳払いをした。

「まあ、その、今日のランチはまだありますかな?」

「申し訳ございません、岩田様、Aのパスタランチは終了ですが、Bランチのベルギー風パンケーキセットならご用意できますが」

「ではそのセットを二つ。ドリンクは私はシメイのブルーをね。きみはどうする?」

「私は紅茶のカプチーノをください」

「かしこまりました」

オーダーが入ると同時にシェフ矢島は小さくガッツポーズを作って見せ、早速調理に取り掛かった。ベルギー風パンケーキは、彼オリジナルの自信作なのだ。

ワッフルの型に生地を流し込んで焼いたパンケーキは、外がカリカリ、なかはフワッフワな食感だ。またソースが凝っている。ベルギーチョコレートをバターで溶かし、トラストビールを注いで、煮詰めたこのオリジナルソースを、パンケーキにたっぷりとかける。試食では店長も私も大絶賛だった。今月よりランチメニューに加えたが、すこぶる評判がいい。

やがて彼らの前にドリンクとともに、焼きたてのパンケーキが並んだ。

二人ともナイフとフォークで切り分けほぼ同時に一口ほおばった。しばし味わいを確かめるように静かにそしゃくしていたが、「おいしーぃ」と彼女が言うと、「ほー、これはまたなんとも・・・」と老人もうなるようにうなづいた。

それから二人は無言のまま一気にパンケーキを平らげた。

「いや、驚きました。こんなうまいパンケーキは初めてだ。料理長、脱帽です。」

老人は厨房のシェフ八嶋に向かって軽く頭を下げた。

「本当。あっさりした生地にちょっと苦めのチョコレートソースが絡んで大人のパンケーキって感じですね。ワッフルの型で焼くなんてすごいアイデアだわ」

彼女もうなづいた。

シェフはコック帽を軽くあげ、カウンター越しの二人に会釈を返した。

「恐れ入ります。エー、これは僕が考案したメニューでして。ワッフルの型で焼くことで、生地の厚いところはもっちり、薄いところはカリカリになり、ふた通りの食感がお楽しみいただけます。また、このパンケーキはソースが命のメニューでして。隠し味は企業秘密ですが、ワッフルの型の凹凸にソースがよく絡むのが特徴です」

シェフ八嶋、得意満面だ。

二人とも大きくうなづいている。そして、気分が乗ったのか、岩田老人がシメイのおかわりをした。この日3杯目である。

「実はねぇお嬢さん。実は、その・・・この度、こちらの由起子さんと結婚したのですよ」

「・・・はい?」

私は思わず磨いていたグラスを落としそうになった。

シェフ矢嶋も驚いたらしい。

「いやぁ、家内の三回忌の時、この人がきてくれましてね・・・以来何かと気をつかってくれましたもので・・・」

「違うんですよ。私がずっと先生をお慕いしていて・・・。、大学卒業以来お会いしていなかったのですが、奥様が亡くなられたとうかがって・・・。始めはご遠慮していたのですが、三回忌で久しぶりに先生にお会いして、それ以来、なぜか気になってしまい、私から押しかけ女房のように居座ってしまったんです」

「恥ずかしながら、私もこの人の温かい人柄につい・・・。先月からハネムーンをかねて全国を気ままにドライブ旅行してきましてね。途中軽井沢の教会で二人だけで式をすせ、おととい帰って来ました」

するといつの間にか、外出から帰ってきていたらしい店長阿倍が、シメイの小瓶を持って突然二人の背後からカウンターに置いた。

「それはおめでとうございます、岩田様、これは私からのお祝いです。帰りにお持ちください」

「ほう、これは店長・・・ではありがたく頂戴いたします」

「お二人ともなかなかお似合いです、なあ城戸」

「あ、はい・・・」

私にはどうしても親子にしかみえないのだが・・・

3杯目のグラスを空けると、岩田老人は、新妻とともに帰っていった。私は狐につままれたような気持ちがした。

「いつまでぼんやりしてるんだ、城戸。さっさとカウンターを片せ」

「あ、はい。」

「それにしてもあの爺さん、なかなかやるな、そう思わないか、八嶋?」

「本当ですよね。男の夢ですよ」

「何が男の夢なんですか?」

「お前は馬鹿か、城戸」

「城戸ちゃん、定年退職して、第二の人生を、若い女とスタートする。そんな男のロマンが城戸ちゃんにはわからないかなぁ」

「そんなのロマンでも何でも無いです。男って結局若い女がいいってだけのことじゃないですか」

bm「お前には何を言っても無駄だな。それにしても八嶋、あの女、ただものじゃないぞ」

「といいますと?」

「おととい高速を飛ばしていたら、俺の車にぴったりついてくるやつがいたんだ。しかも真っ赤なBMのZ4だ」

「BMのZ4といえば店長の愛車と同じですね」

「ああ、俺のは地味なシルバーだがな。でその車、コンパーチブルをはずして200キロ近く飛ばしていた。運転していたのが女だったんでつい俺も運転より女にきをとられて・・・さっきの女だったよ、間違いない。もっともあの時は車と同じ派手な服を着ていたな。今思えば助手席にあの爺さんが乗っていた」

「スピード狂の店長と張り合うなんてたいした女性ですねぇ。あの老人もなかなかやりますね」

「しかも爺さん、実に楽しそうにあおっていた」

「残りの人生はさぞかし楽しめますねぇ」

「ああ、これこそ男のロマンだ、城戸、少しはわかったか?」

「ゼット何とかとかコンパーチとか、知らない単語だらけで何をいっているのかぜんぜん分りません」

店長あきれた顔で「アホかお前は」

当店オススメの春一番のギフト