「安倍店長と片桐主任て付き合い長いんですか?」
カフェの閉店後、お皿を厨房まで運びながら、思い切って私は片桐主任に聞いてみた。
珍しくご機嫌のようで鼻歌交じりに伝票を集計していたからだ。
主任はレジから引き出した伝票をぐるぐる巻きながらちらと私を見て、「まあね」といったきりまた視線を戻してしまった。
店長安倍とシェフ八嶋は早々と仕事を切り上げて、事務室のテレビにかじりついている。
まもなく始まる女子サッカーの世界大会観戦のためだ。
二人とも試合そのものよりも、プレイヤーに興味があるらしい。さっきからどの国の誰それがかわいいとか、ナイスパディだとか、そんな話で盛り上がっている。
今日はお客も少なく片付けも楽なため、私は一人で皿を洗い始めた。
「同期入社なんだよね」
主任がシンクに集めたふきんを洗いながらつぶやいた。
「はい?」
「御曹司とあたし、大学4年のとき本社の内定決定者の説明会で、初めて顔あわせたってわけ」
「そうだったんですかぁ、初耳です」
「もともと同期が少なかったし、当時を知ってる人もほとんどいないからね。今残ってるのはあたしと安倍店長、あとはあんたもよく知ってる本社の平川君くらいだよ」
「あの平川係長も・・・みんな仲よかったんですか?」
「まあ・・・ね、研修とか厳しかったから助け合ったりしたよ。でも入社したとたん、配属がばらばらになっちゃって。あたしは外回りの営業で、平川君は当時できたばかりのインターネット部門、そして御曹司はそれこそ毎月配置換えでいろんな部署をまわった挙句、一年もたたずに海外転勤」
「ヨーロッパのホテルやレストランで修行したっていう?」
「そうそれ。あいつ何も言わないから、みんなそれまで社長の息子だなんて知らなかったのよ。御曹司だってわかったのは海外転勤が決まって送別会の時、初めて聞いた」
「それ以来御曹司ってよばれてるんですか?」
「まあね。でも親のコネで入ったといってもあいつの場合、人一倍苦労したと思うよ。社長はまもなく会長に退くけど、あいつ次男坊だから、次期社長は長男にほぼ決まりだし」
「店長ってお兄さんがいらしたんですか」
「それも飛び切り優秀なエリートで社長の自慢の長男。それにひきかえ、あいつは不肖の次男ってわけ。だからかわいい子には旅をさせろとばかりにあいつをヨーロッパに飛ばしたまではよかったけど、それが間違いのもとだった」
「いったい何があったんですか?」
私は思わず身を乗り出した。
「確か渡欧して3年目だった。あいつがフランスにいるとき、現地の女性と大恋愛をした」
「異国での大恋愛だなんてロマンチックですね」
ひとごとながら胸が高鳴る。あの店長にも純愛時代があったのだ。
「二人は本気で愛し合って結婚の約束までしていたらしい。でも社長も奥様も皆大反対した。その女性、女優志望のダンサーだったんだ・・・結局御曹司はドイツに飛ばされた。当時名もない場末の踊り子に、彼の行方を知るすべもお金も無かった。二人は引き離された」
「ほんとにそれきりになってしまたんですか?」
異国を舞台にした悲しい恋物語が胸を突く。セピア色した映画の画像が浮かび、頭の中は妄想でいっぱいになってきた。
「その後御曹司はベルギー、オーストリア、イギリスとヨーロッパ各地に飛ばされ、10数年が流れた。その間ずいぶんと手を尽くして彼女を探したらしい。そしてわかったことはその後彼女は女優を諦め、平凡な結婚をしたらしいということだけ。それであいつもきっぱり諦めた。その後も御曹司の各国での修行は続き、ようやく昨年帰国した」
「なんて切ない恋物語なんでしょう」
「でも帰国してからのあいつ、以前の御曹司とはちょっと様子がかわっていた」
「失恋して別人になったとか?」
「そこまで極端じゃないけど、なんか仕事に対する気迫が違うように思う。あたしさぁ、今回この店に配属されて久々あいつにあったんだけど、あいつこの店にかけてると思うよ。入社以来各地をたらいまわしされ、スキャンダルを引き起こした挙句の帰国だからね、周囲の風当たりは強いし、当然あいつの本社でのポストは無い。そこで次期社長の長男の提案で、ヨーロッパビールのカフェバーの立ち上げにあいつが任命されたんだ」
「店長はこの店に本気で取り組んでいるということですね」
「まああいつも親や重役連中に対しての意地もあるからさ」
今までいだいてきた店長安倍比呂人への偏見が急速に氷解して行く。
「そういうことなら私たちもがんばらなくちゃいけませんね」
心のそこから闘志がみなぎってきた。
すると事務所から店長の声。
「オイ、お前たち、何でもいいからビールもってこい」
相変わらずの尊大な言い方だが、さすがに長い付き合いだけ合って片桐主任はあっさりと答えたものだ。
「了解、今すぐいいのを持って行くからさ、待ってなよ御曹司」
そして主任片桐はまるで予測していたかのようにあらかじめ冷やしておいたビールを専用の冷蔵庫から取り出してきた。
ブレッツ ブロンド フランスのビールだ。
事務所からシェフ矢嶋が出てきた。
「二人とも遅くまでご苦労さんでした。一緒に観戦しようよ」
事務所では店長安倍が食い入るようにテレビを観ている。
「店長ってサッカーに興味あったんですか?」
「いやまったく無い」
店長は受け取ったブレッツ ブロンドをビンごとのどを鳴らしながら飲んだ。
シェフ八嶋が片桐主任と私にもおなじビールをわたしてくれる。
「店長は試合どうでもいいの」
「え?どういうことですか?」
すると一気にブレッツ ブロンドを飲み干した店長が画面に映る選手と瓶を見比べながらしみじみいった。
「やっぱブロンドはいいぞ」