春。
夕闇の訪いは、つれない恋人のように日増しに遅くなる。
やっと暗くなりかけた頃には、店の中はほぼ満席に近くなっていた。
ランチタイムの陽気であわただしい雰囲気とは異なり、この時間の店内は、落ち着いていて、ビールを飲むお客もゆっくりとその気分を楽しんでいる。
そんな客席を見やりながら、私はレジに近いカウンターの中でグラスを磨いていた。
そこに入ってきたのは、30代と思しき女性。ピンストライプのスーツは地味だが最新のデザイン。人目を引く容姿だ。
「いらっしゃいませ」
「6時に予約を入れておいた菊池ですけど早かったかしら?」
「いえ、2名でご予約の菊池様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
私はカウンターを出て奥まったところにある、二人がけのテーブルへ案内をした。そっと [RESERVED]の立て札を外す。
菊池と名乗った女性は壁際の席に腰を下ろすとメニューを取り上げた。ヨーロッパビールの銘柄が並ぶ、ドリンク専用のメニュー。
彼女がページを繰っている間、私はミネラルウォーターのコップを用意して、テーブルの上に置いた。
「ご注文は、お連れの方がお見えになってからになさいますか?」
「いいえ。歩いてきたから、喉が渇いてるの。グーズフォントラディションをください。」
そして、言い訳するように、
「どうせ彼、オンタイムには来ないでしょうから先に一杯やりながら待つわ」
と、いたずらっぽく笑った。
小さな驚きがそれ以上面(おもて)に広がらないよう、私は細心の注意を払い、
「かしこまりました」
と、一礼して一旦彼女の前を辞した。
初夏を思わせる、こんな陽気の夕暮れに迷わずグーズフォントラディションを注文するなんて。
この女性(ひと)はヨーロッパの、少なくともベルギービールをある程度、知っている。そしてたぶん、外見よりもとても大人だ。
程なくして私は彼女のテーブルに注文の品を運んだ。
「お待たせしました」
いい具合に冷えたビールの小瓶とグラス。
彼女はまず小瓶を手に取り、そのラベルを眺めた。
それからおもむろにグラスに注いだ。
泡の具合を確かめながら、大胆に、しかも繊細に。
注ぎ終わるとグラスを目の高さに持ち上げ、泡のできばえを確かめる。
そして、ひと口含むと、その味わいを全身で感じ取ろうとするようにしばらく目をとじた。
それら一連の動きはとても優雅で、しかも華やかだ。そんな風にゆっくりと時間をかけて、結局彼女はグーズフォントラディションを2杯飲んだ。
連れはまだ来ない。
それにしてもこれほどの女性を待たせるとは、どんな男性なのだろう。
好奇心と期待と軽い嫉妬心。
私の中で芽生える、そんな小さな感情。
2杯目を飲み終えた後もしばらく彼女は、そのままだった。
そろそろ約束の時間から20分が過ぎようとしていた。が、特に彼女にいらだつ様子はない。
むしろ楽しんでいるよう。そう、至福の潤いを堪能したその余韻を、彼女はひとりで楽しんでいた。
程なく彼女は席を立ち、バッグと伝票を持ってレジに向かった。
「ごめんなさい。どうもお相手は来そうに無いから、今日はこれで帰るわ。お会計をお願い。」。
「かしこまりました。合計で1,950円でございます」
彼女はカードで支払いを済ませると、「いいお店ね。また来るわ」といって店を出て行った。
それから。
「あんな良い女を待たせるなんていったいどういう奴なんだろうね、全く」
あっけにとられていたシェフ八嶋が、今度は腹立たしそうにつぶやいた。美人のために自慢の腕をふるおうと、食べもののオーダーが入るのをてぐすね引いて待っていたのだ。
ちょうどそのとき外出から帰ってきた店長阿倍は、店に入るなり、
「おい、今とびきり良い女が来てただろう」
と、やや興奮気味に言った。
「店長、忙しい時間にまたどこ行ってたんですか?ただでさえ人手が足りないんですから、黙って出かけないでください」と私。
「営業だ。仕方ないだろう。それより、今の女、なんて名前だ?支払いはカードか?」
「いい加減にしてください、店長。何考えてるんですか」
「菊池とかって言ってましたよ。予約してたんですよ」とシェフ八嶋。
ちゃっかり名前をインプットしている。
「せっかく予約してたのに相手の男がなかなか来ないんで帰っちゃったんですよ」
シェフ、心底悔しそうに言う。
「僕のお勧めメニュー、食べさせたかったのになあ」
「でもあの人、ホントに待ち合わせしていたのかしら」
私は、先ほどから抱いていた疑念を口にしてみた。
「えっ?」と二人の男の視線がこちらに向く。
「いえ、あの、最初からひとりで来るつもりで予約してたんじゃないかってふっと思ったものですから」
「そんなことあるわけないよ、城戸ちゃん。一人で来るつもりなら、予約なんて必要ないでしょ」と、シェフ八嶋。(この人、初対面で、私が年下とわかったときから、こう呼ぶ)
「一人じゃきまり悪いとでも思ったと言いたいのか?」と、店長阿倍。
「いいえそうではなくて。彼女、このお店で純粋にビールを楽しみたかったんだと思うんです。だって、メニューを取るとすぐベルギービールのページを繰って、迷わず、グーズフォントラディションを注文したんですよ」
「なるほど、ランビック(自然発酵)はベルギービールならではだからな。.しかもグーズフォントラディションとなるとランビックの王道を行く、いわば基本中の基本のグーズビールだ。酸味、発泡性ともに強くて、今日のような汗ばむ陽気にはぴったりだ。あの女、美人な上になかなか通かも知れん」
「それなら、なんで2名で予約する必要があるのよ」と、シェフ。
「私、菊池様から予約のお電話受けた時、お二人とうかがって当然カップルを想像したんです。それなら、入りひとりで入っていったらカウンターに座らされるかもしれないから、あらかじめそんなことされたんだと思います」
「つまり、奥まった席でゆっくり好きなビールを味わいたかったから、2名ということで予約したというんだな」と店長。
「はい。そもそも彼女、待ち合わせといいながら入ってきた時から少しも人待ちの様子ではなかったんです。扉が開いても無関心だったし、携帯電話をチェックすることもなかった。それどころか、ひたすらグーズフォントラディションを堪能していらっしゃいました。なんていうか、自分の世界に入っていて誰も入り込む余地なんて無い雰囲気でした。だから帰られるとき、『いいお店ね。また来るわ』って。あれ、本音でおっしゃったと思いました」
「そうか、また来るか」
店長阿倍の目がわずかにぎらついた。
「よおし、今度こそ僕の自慢の腕を振るうぞ」
シェフ八嶋の声もさらに甲高くなる。
「城戸、当分の間あの席は〔RSERVED〕の札を置いておけ。菊池様の指定席にする」
「いいですねぇ、店長」と調子に乗るシェフ。
「そんな、無理ですよ。まだ次回のご予約も頂いてないのに」と私。
「いや、彼女は近いうち必ず来るぞ、しかも上客になる。今日だってたった20分でこれだけ売り上げに貢献している。予約の立て札は六時から30分だけでいいから言うとおりにしろ」
「わかりました。明日からやります」
私はしぶしぶ答えた。
ところが店長の予感は的中し、その二日後、菊池様は突然来店された。
そしてそれ以来、彼女は当店の上客且つ常連となった。
最近ではシェフ八嶋の料理にもオーダーが入るようになって、彼を大いに喜ばせている。
しかし、その雰囲気は初めてのときと少しも変わらない。ひとり静かに飲む姿は、やはり優雅で洗練されている。
そして、もちろんあの席は、今では菊池様専用になっている。