グラス7 若きシェフの憂鬱

<フロッケンベーカリー>は欧州ビールカフェと同じ通り沿いに立つ、人気のパン屋さんだ。
シェフ八嶋がいち早くその味の良さに目をつけ、以来食パンやバケットを始め、数々のパンがカフェのランチメニューに欠かせないアイテムとなっている。焼き立てを届けてもらうこともあれば、私がお使いに出ることもある。

その日の朝。
カフェの前まで出勤してくると、店から顔なじみの若い女の子が出てきた。
「あっ、おはようございます。副店長さん(^-^)」
ベーカリーでバイトをしている、笑うと右のほほにえくぼができるかわいい子。名前は何だったっけ…。
「おはよう、確かフロッケンベーカリーさんの…」

「伊藤まさみです。ちょうど今、焼きたてのマフィンをお店にお届けしたところです」

「それはご苦労様ですぅ。おたくのパンはどれも本当においしいよね。うちのお客様にも評判いいし」

「ほんとですかぁ? 嬉しいです(^^)」

「またよろしくね(*^^)v」

「こちらこそよろしくお願いします…。じゃあ私お店に戻りますのでこれで失礼します。どうもありがとうございました」
彼女は丁寧に頭を下げると人懐こい笑顔を浮かべ、通りをベーカリーに向かって歩いて行った。

カフェに入るとなんともいえない芳香が店に充満していた。
シェフ八嶋が焼きたてのマフィンを紅茶で流し込んでいるところだった。
「おはようございます八嶋シェフ、すごくいいにおいですね」
「おっ、おはよう城戸ちゃん、今まさみちゃんが焼きたての[王様のマフィン]を届けてくれたんで、試食していたところなんだ。アチチッ」
シェフ八嶋、すすっていた紅茶のカップから反射的に唇を離した。心なしかあわてている様子だ。(まさみちゃんなんて呼んで意外と親しいんだ)

「そうなんですか? でもコーヒー党の八嶋シェフが紅茶だなんて珍しいですね」

「コーヒー党ってのは心外だなぁ。ヨーロッパ各地を放浪してきた僕としては郷に入れば郷に従えってのがポリシーだよ。このマフィンにはやっぱ紅茶なんだよなあ。さしずめルピシアのベルエポックかフォションのアールグレイってところが妥当だね」
「さすが、マニアックですね。そのまさみちゃんと今そこであいましたけど、いい子ですね。」

すると急にシェフ八嶋の顔が輝いた。
「でしょう?明るくて清楚で・・・それでいて控えめでさぁ、いまどきなかなかいないよね、ああいう子」
なんだか目が潤んでる。シンクにはもうひとつの飲み終えた紅茶カップが下げてある。

ハハーン、なるほどね・・・と心でつぶやいた。

「な、何だよ、城戸ちゃん。気味悪い笑顔して」

「イエ、別に・・・」(やっぱ私って考えてることが顔に出ちゃうんだ)

その日のBランチはすこぶる好評だった。
フライした白身の魚(この日は鱸)をシェフ特性のタルタルソースに絡め、たっぷりのお野菜とともにマフィンでサンドしたシェフ渾身の自信作、FBスペシャル。(シェフのネーミング・・・フィッシュを使ったBランチの意味。イギリスのフィッシュ&ベッドにかけているらしい)
パスタ系のAランチと違い、軽いパンがメインのBランチはお昼時を過ぎてもオーダーが入る。
「王様のマフィンあと2個しか残ってませんね。シェフ、私フロッケンベーカリーまで買いに行ってきましょうか?」

「いや、これでやめておこう。あと2個しか残っていない、言い換えれば2個も残っているんだ。SOLD OUT=売り切れというのはチャンスロスという危険もはらんでいるけど食べ損ねたお客にとっては想像以上の付加価値を持つからね。次回の購買意欲につながるんだよ。だから今日のところは残り2つのマフィンを閉店までににさばく方向で考えよう」

「わかりました・・・でも八嶋シェフって結構分析脳力あるんですね」
「アハハ、正直言うと今のは店長の受け売りだよ。ヨーロッパを放浪している時、ひょんなことから店長と知り合ってね。当時の僕は皿洗いのバイトしながら各地を歩き回る貧乏学生でさ。店長は親父さんの会社に入って世界各国のホテルで修行の身だったのさ。そのとき店長からはいろいろ教わったんだ」

すると背後から聞きなれた低い声がした。
「そんなこともあったな」

「あ、店長おかえりなさい」(ホント、いつもながら神出鬼没な人だ)

「お客を連れてきたぞ」
そして手で押さえたドアのむこうに向かって「君たち入ってきたまえ」といった。
すると女子高生が4人、きょろきょろしながら入ってきた。皆近くの女子大付属の制服を着ている。何人かは地元のタウン誌を胸に抱えていた。

少女A「なんか記事で見たよりお店狭いね」
少女B「でもなかなかこじゃれてるジャン」
すると少女C、厨房のシェフ八嶋を指差した。
「あれ、写真にでてたシェフじゃない?」
少女AとB「マジィ?本物のほうがかっこよくね?」
少女C「やばいよ、店長もいけてるけどあたしあのシェフ、マジ好みかも~」
少女A「あたしはやっぱ店長かなあ、背ぇ高いしぃ」
少女B[あれ、店長は?」

そういえば店長、彼女たちを店に呼び込んだとたんに姿を消していた。
(やれやれ店長またいなくなったんだ。それにしてもこの子たち記事とか写真ていってるけどなんのことかしら…)
そういえば2ヶ月ほど前、地元のタウン誌の記者が来て、カフェとランチメニューの紹介をする記事を書きたいといって取材していったことがあった。女性の記者はインタビューと撮影を一人でこなし、2時間ほどで引き上げていった。
あの時は開店してまだ間もなく、私たちスタッフもあたふたしていたので、その後取材のことなどすっかり忘れていた。

少女たちはタウン誌を手にこの店の前にいるところを、外出から戻ってきた店長に声をかけられ、店に入ってきたらしい。
4人はカウンターに近い席に座るとメニューを取り上げた。
「あのう、Bランチってまだありますか?」と少女A。
「ごめんなさい、今日は特に好評であと2人分しか残ってないの・・・・・あの、もしよろしかったらシェフお勧めのベルギー風パンケーキはいかがですか?」
勧める私に、入店以来ただ一人一言も発していなかった少女Dが遠慮がちに口を開いた。
「あ、私そのシェフお勧めのパンケーキいただきたいです」
するとすっかり気をよくしたシェフ八嶋、
「君たちせっかく4人できてくれたんだから、パンケーキとBランチ2つづつにしてシェアして食べたら?」
と提案した。

結局4人の少女たちは水とおしゃべりですごした。ただ店を出るとき、一番無口だった少女Dだけは厨房のシェフに向かって、「とってもおいしかったです」と丁寧に頭を下げていった。

翌日。
ようやくランチタイムの忙しさから開放されてのんびりしていると。
昨日の女子高生のうちの一人が入ってきた。一番控えめな少女Dだ。

「いらっしゃいませ。今日は一人?」
「はい、シェフのベルギー風パンケーキがあんまりおいしかったものですから、また食べたくなっちゃって・・・あの、まだありますか?」
少女は小さな声で恥ずかしそうに上目遣いで私を見た。

すると厨房からシェフ八嶋が気がついて、
「やあ、いらっしゃい。パンケーキはいつでもOKだよ。すぐ焼くから待っててね」
と声をかけた。
少女は顔を紅潮させてコクリとうなづいた。
「今お水持ってくるね、どこでも好きなとこ座っていいわよ」
すると少女は迷わずカウンターに行き、厨房が一番よく見渡せる真ん中の席に腰を落ち着けた。
(この子恥ずかしがり屋のわりにストレートに自分を表現するタイプなんだ)

厨房はカウンターの奥にある。間仕切りはないが、下がり壁になっていてその下はちょうど対面式キッチンのように、調理台やガス台、シンクがあり、カウンターのお客からはシェフの声も動きも丸見えになる。少女が座ったカウンターの中央は、厨房の壁際のコの字型の作業台まで見渡せた。
少女Dはシェフがパンケーキを焼く間、じっとその様子を見ていた。パンケーキが具されると静かにそれを食べた。食べ終わるとまた厨房で作業するシェフの姿を見つめていた。1時間ほどそんな風に過ごした後、昨日と同じように「とてもおいしかったです」といって頭を下げて帰っていった。

「なんかシェフに熱い視線送ってましたね」
「よしてよ城戸ちゃん、まだ高校生だよ」
「いまどき高校生っていったら立派に女ですよ」
「僕は基本的にガキには興味ないの。どちらかといえば大人の女性のほうがいいよ。若くてもせいぜい23,4はいってないと女とはみなせないな」
「ベーカリーの伊藤まさみちゃんとかですね」
「何だよ、やぶからぼうに」
シェフが珍しく顔を赤らめた。

「八嶋さん見てたらわかりますよ。でも彼女とだったらお似合いだと思いますよ」
「そ、そうかい?」
シェフ、すごくうれしそうだ。
「ハイ、仲良くしてるみたいじゃないですか。今朝も一緒に紅茶飲んでいたんでしょう?」
「アハ、城戸ちゃんも人が悪いな。焼き立てマフィンを届けてくれるとつい食べたくなっちゃってさ。はじめはコーヒーで食べてたんだけど、まさみちゃんが紅茶のほうが合うからってあるときティーバックを数種類持ってきてくれたんだよ。あの子紅茶には結構詳しいみたいで」
「それから配達のたびにまさみちゃんとお茶するようになったんですね」
「ま、まあそんなところかな」
「なるほど、それで最近では本格的な茶葉や機材にティーカップまで揃えたわけですか」
「別にまさみちゃんのためというわけではないぜ」
「わかってますよ、でも・・・」
「え?」
「八嶋さん、確かわたしより2つくらい年上でしたよね」
「うん、それがどうしたの?」
「ということは今34歳。まさみちゃんは確か24歳。もしシェフが本気で彼女と付き合いたいならここでひとつ思い切った行動に出たほうがいいですよ」
「思い切った行動って・・・」
「デートに誘っちゃうんですよ」
「デートかぁ。しかしいきなり誘うってのもなんか唐突だよなぁ・・・」

するといつの間に帰ってきたのか店長安倍がが口を挟んだ。
「映画のチケットが手に入ったから一緒に行かないかと誘うってのはどうだ?。話題作なら無難だし誘われたほうものりやすいだろう」
「なるほど、古典的な手ですが、今のシェフとまさみちゃんの関係を考えると、一番自然な誘いかたですね」と私。
シェフ八嶋は俄然やる気が出てきたらしい。
「よーし早速ネットでチケット2枚手に入れよう」

翌日の昼下がり。
例の少女Dはまたやってきてパンケーキを注文した。
いつもどおりカウンターの中央に座り、待っている間も、食べ終わってからもじっとシェフを見つめている。どうやらこの子、本気でシェフ八嶋に恋しちゃったらしい。

しかし肝心のシェフは心ここにあらずであった。
手に入れたチケットを、明日まさみちゃんに渡すことで頭がいっぱいなのだ。
少女Dの送る熱い視線などまったく気づかない。
「八嶋さん、早く明日の朝が来るといいですね」
からかうようにわたし、シェフの耳元で囁いた。

と、怒気を含んだ少女の視線がわたしを刺してきた。
(しまった、この子に恨まれちゃう)
恋する乙女にとって、彼に近づく女はにっくき敵なのだ。

すると少女は立ち上がり、
「あのう、八嶋さんちょっとお願いがあるんですけど・・・」
といってかばんからチケットを取り出した。
「公開中の『パイレーツオブカリビアン』友達に譲ってもらったんですけど、一緒に見に行きませんか?」
きょとんとしていたシェフ八嶋はそのまま凍りついてしまった。彼もまた同じ映画のチケットを入手していたのだ。

「あの・・・悪いんだけど僕その映画、この前友たちと観に行っちゃったんんだよね」
「えーっ、そうなんですか?」
少女は心底がっかりしたようだった。
「じゃあ・・・帰ります」
そしてそのままかばんを持ってレジに向かった。

すると突然お店の扉が開いてお客が一人飛び込んできた。
「いらっしゃい・・・あれ、まさみちゃん、配達は確か明日よね」
わたしの声にすぐ反応してシェフ八嶋が厨房から出てきた。
「やあ、まさみちゃん、こんな時間にめずらしいね」
「休憩時間なんです。30分だけですけど、一度話題のベルギー風パンケーキを食べたくて・・・」
「了解。すぐ焼くからそこに座って待っててね」
シェフはまさみちゃんにカウンターの中央の席、つまり今まで少女Dが座っていたところをすすめた。

少女の怒気を含んだ視線が今度はまさみちゃんに向かった。
何も知らないまさみちゃんは、メニューを繰りながら楽しそうにドリンクを選んでいる。
「ねえ八嶋さん、そのパンケーキには何を飲んだら合いますか?」

ヒューガルデンホワイト「僕個人としてはベルギービールのヒューガルデンホワイトをオレンジジュースで割る、オリジナルのビアカクテル『オレンジ サンセット』がお勧めなんだけど、勤務中だからアルコールはだめだよね。まさみちゃんは紅茶党だから、ルピシアのフレーバードティをアイスでつくってあげよう」

「わぁ、うれしいな」
無邪気に喜ぶまさみちゃんと、でれでれしているシェフ八嶋。
いつものわたしなら、一緒に喜んでむしろ二人をあおるところだ。
しかしすでに少女Dの怒りは頂点に達している。

「そういえば、八嶋さん、映画って好きですか?」
するとまさみちゃんはベーカリーのエプロンのポケットからチケットを取り出した。
「実はさっきお客さんから『パイレーツオブカリビアン』のチケットいただいちゃって・・・よかったら一緒にどうかなって」

すると少女D猛然とカウンターに歩み寄ってきた。肩で息をしながら明らかに興奮している。そしてぴたりとまさみちゃんの前で止まった。
「残念ですけどシェフは先週この映画見ちゃったんですって、ね、八嶋さん」
きっと八嶋をにらむ。
「え?ああ、うんまあ・・・」
あいまいに答えるシェフ八嶋の困った顔。

再び少女はまさみちゃんを見て呼吸が落ち着くのを待った。
「じゃあわたし帰ります。ご馳走様でした。」
少女Dは心なしかいつもより乱暴にお金をレジカウンターに置くと、そのまま店を出て行った。

「なんかさっきの子、八嶋さんのこと好きみたい」
パンケーキをアイスティで流し込みながらまさみちゃんがポツリといった。
「そんなんじゃないよ、ただうちのパンケーキが気に入ったみたいで・・・」
「うふ。八嶋さんもてるんですね。でもホントにこのパンケーキおいしいです。ごちそうさまでした」
まさみちゃんはお会計を済ますと、時計を気にしながら帰って行った。

「どうして後からでもホントのことまさみちゃんにいわなかったんですか?せっかくのチャンスだったのに」
「あの高校生の子にうそついて断ったあとだぜ。いくらなんでもそんなことできないよ」
「シェフって店長と違ってまじめなんですね」
少し歯がゆい気がした。シェフの顔は後悔と苦痛にゆがんでいた。

翌朝カフェに出勤すると、店内は例のマフィンの焼きたての香りが満ちていた。
「まさみちゃんもう帰ったんですか?」
するとシェフ八嶋、とても低いテンションで
「今日はパートのおばちゃんが来た」
「えっどうして・・・?」
「まさみちゃん、就職が決まったんだって」
「就職?」
「大学卒業した後就職浪人で、バイトしながら就活してたらしいんだけど、昨日突然採用が決まったたらしい。中途採用だから今日から早速出社なんだって」
「なんだか急な話ですね」
「こんなことなら一緒に『パイレーツオブカリビアン』観にいけばよかったよ・・・」
「八嶋さん、そんな落ち込まないでくださいよ。たまたまタイミングが悪かっただけですよ」

すると突然事務所の扉が開き、中から店長が現れた。どうせ朝方帰ってきて、事務所のソファで寝ていたのだろう。大きくあくびをしながら、
「そのタイミングってのが大事なんだ。スタートでタイミングがずれるようなら、所詮その恋はうまくは行かない。八嶋、そのまさみちゃんとは縁がなかったと思って諦めるんだな。お前ならまたいい女が現れるさ」といった。

「ええ・・・そうします。もともと僕は若い子より、ちょっと大人の女性が好みだし」
(この人意外と立ち直り早いかも・・・)

こうしてシェフ八嶋の恋が始まる前に終わった。
同時に少女Dの短い片思いも終わった。少女はそれきりカフェには来なかった。
シェフ八嶋はまたコーヒー党に戻った。

「ねえ八嶋さん、いつかまさみちゃんに飲ませたいっていってたシェフオリジナルのビアカクテルなんていいましたっけ?」

「ああ、『オレンジ サンセット』ね」

「オレンジのたそがれが目に浮かぶような素敵なネーミングですね」

「ありがとう。アルコールが苦手な女の子や、おやつのときにスイーツと一緒に飲めるビールがほしいと思って作ってみたんだ。飲んでみるかい?」

「はい、ぜひ♪♪」

そしてシェフは生のオレンジをピルスナーグラスに絞っていれ、さらにベルギービールのロミーピルスをその上に注いで軽くステアした。グラスのふちには厚く切ったオレンジのスライスをおしゃれに飾ってわたしに差し出した。

はじめにオレンジの爽やかな甘みと酸味。続いてかすかに感じるアプリコットの香り。そしてホップの苦味がついてくる。
そしてロミーピルス特有の繊細でやわらかい舌触り。それらが渾然一体となってのどを通っていく。

「すごくおいしい♪ こんなの初めてです。それにこのビール、まるでベルベットのようになめらか…」

「気に入った?」

「ハイ、切ない恋の味がしますぅ(^_^)b」

「それを言うなって(>_<)」

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